いろいろな魂の成長度の人たちがいる

すべての責任は自分にあると書きました。

私はこの地球にはいろいろな魂の成長度の人たちがいると思っています。
みんなこの地球学校の生徒で、魂の成長度に合わせた保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、大学院に行っているのです。

だから魂レベルで小学生が多く集まった国もあると思うし、高校生が多く集まった国もあると思っています。そして魂レベルの小学校を体験しているときでも、その中には下級生や上級生がいるわけです。

6年生の私が1年生の他の人に「あなたはなぜ掛け算がわからないの!」と怒ってもしょうがないですよね。学びの段階があるということです。
そして成長にあわせてみな同じ道を通ってきているということです。

だから実年齢が同じだからといっても、魂レベルでは一緒かどうかはわからないということです。
同じ年齢の人でも大人びてるなとか幼いなと思うことってありますよね。
最近は自分の子供のほうが魂レベル上だと思う、というようなこともよく耳にします。

でもこれもどちらが良い悪いということではありません。
みな魂の成長のために、この地球に生まれてきているのですから。

そしてもうひとつ。
自分で人生劇場のシナリオを決めて、配役も決めてお願いしてきたと書きました。
ということは目の前に現れる人たちは、みんなそれぞれの役目を務めているということに気が付きます。

この人は私に嫌なことばっかりする!と思っていても、そういうお役目を引き受けてくれた人なのですね。そしてそれをお願いしたのは自分です!あはは!

みんな自分の内を見直すために登場してくれて、お役目を全うしてくれているのです。
そうすると、他の人と比べる、争う、競う、批判する、憎む、怒る、憐れむ必要は無いことに気が付きます。

やることは、どんなことがあっても、目の前に現れた人の真の姿を認め、受けいれることが大事なのですね。

真の姿とは=他人と自分はひとつ=全ておおもとに繋がっている=おおもと=真我=愛






すべての責任は自分にある

自分以外のことは「ただ見守る」と書きました。

が、私たちはひとつです。全て繋がっています。
ということは、関わったものはすべて自分にも責任があるということになります。
見たもの、聞いたものすべて自分の責任だということです。
だからすべてをクリーニングしていきます。

なんのため?なぜ?どうして?
そんなことは私たちの思考(顕在意識)ではわからないのです。
でも潜在意識はわかっています。
だからただクリーニングするのです。

例えば戦争ががあると、大変だ、可哀そうだなどいいます。
そしてあいつが悪いと、他人事のように言います。

でも投げかけたものが、自分に返ってくるを思い出してください。
自分が投げかけてなければ、それを見ることも聞くこともないのです。

もちろん戦争はよくないことです。
でも小さな戦争(人と争う、嫌う、裁く、おとしめるなど)がいつも自分のなかで、家庭で、職場でで起こっていませんか?

自分の中の小さい戦争はまあいっかとゆるせるけど、他で起きている大きい戦争は悪いからゆるせないのですか?

わたしはのちに「A Mighty Hear (マイティ・ハート/愛と絆」という映画の中で、旦那さんを殺されたあとに、奥さんが言った「憎めば、またそれが繰り返すから私は彼らを憎まない」と言った意味がわかりました。
彼女は投げかけずに、その連鎖をとめて、ゆるしたのです。

なぜならすべてはひとつだからです。私もあなたもおおもとから繋がっているひとつだからです。
だからあなたの責任は私の責任に繋がるのです。

だからクリーニングが必要なんですね。
見たもの聞いたものすべてをクリーニングする。そして愛を贈ることによって、何かが変わってくるのです。その何かが何なのかは知らなくてもいいのです。
愛を贈ることによって誰かが癒されているのですから。



問題が起こるということは、次のステップにいくチャンス


昨日の続きです。

そして私は命は永遠だと思っているので、いろんな魂の成長度があると思っています。
これは成長度が高いから偉いとか、すごいとかいうことではありません。

どんな魂もその成長度に合わせた課題を決めてこの地球に生まれてきています。
みんな80億人それぞれの人生劇場のシナリオを決めて、それぞれの人生を進んでいます。
そして80億人全員に相棒のハイヤーがついていて、見守って、最善のアドバイスをしてくれています。

そうすると他人と自分の人生を比べてもしょうがないし、他人の人生に首をつっこむ必要は無いということに気が付きました。
やることはただひとつ。自分の人生の<今を生きる>ということです。

自分に問題が起こるということは、次のステップにいくチャンスなのです。
最近は「きたきた!」と対応できるようになりましたが、それまでは何を学んできたのかと思うほど、感情は大暴れして大変な日が続き、そして最後にやっと我にかえって「あっ、これってテストだったんだ。。。」と思うです。これはクリアするまで、あれやこれやと手を変えてやってきます。

例えば会社で自分に攻撃的な人がいるとします。
この人が嫌だ、耐えられない、なぜ自分ばっかりと思って会社を辞めたとしても、
また次の会社やまわりで同じような攻撃的な人が現れます。

なぜならすべての問題は外側にあるのではなく、自分の内にあるからです。
それが外側に投影されているからです。

なぜそのような人が目の前に現れたのかと、自分の内に問い、認めて受け入れるまでそれは延々と続きます。

だから問題が起きたらゲームみたいだと思うと楽しいです。クリアしないと次に行けない!
クリアした後はもっと難しいのが問題が待ち受けているんですが、それにつれて<本当の自分>に戻っていくのだと知っていれば、何があっても大丈夫!そんな感じです。

そしてその仕組みがわかると、例えば他の人に問題があっても、その人自身が解決しないといけないと知っているから、「ただ見守る=愛をおくる」ということになるのですね。

おおもとは完全である=自分も完全である=他の人も完全である
だから、あるがままの自分を認めて、受け容れる。
そして、あるがままの他の人たちも認めて、受け容れる。

メガネがだんだんきれいになっていくと、まわりが輝き始めるのですよ!
というより、この世は愛にあふれて輝いているいることに気がつき始めます。
日本は八百万の神とか七福神とかいう言葉があるので、神を人格化してしまうことが多いかと思いますが、神=愛のエネルギーです。
樹々や咲いている花や、裏庭で鳴いている小鳥たち、道端の石、空気など、
見るもの触れるもの感じるものすべてが美しいと感じるようになります。
すべてに愛のエネルギーがあふれているのですね。
そして私自身もそれに繋がっているのです。
だから自分もいつも平和な心で、すべてに調和していたいと思うようになります。




インナーチャイルド(潜在意識)とハイヤーセルフ

宇宙に存在する全てのものは<おおもと>に繋がっている。
だから全てひとつである。
<おおもと>は全知全能。
だから自分で頑張る人生から、お任せして生きる人生を選んだ方が楽しい。
でも<おおもと>に繋がっていることを忘れている。
だからクリーニングが必要。
日々の生活の中でわきあがる自分の思考・感情ひとつひとつに、耳を傾け、感じ、認め、受け入れて作業をしていくこと、と昨日書きました。

すべての問題は外側にあるのではなく、自分の内にあるのですね。
それが投影されて、外側で起きているように感じるのです。

私は自分の内にはインナーチャイルド(潜在意識)とハイヤーセルフがいると思っています。
顕在意識5%、潜在意識(無意識)95%。
潜在意識には五感で感じたことが全てインプットされています。
だから思考パターンは過去の記録の再生なのですね。
そしてそれが本当に自分のものであるかどうかもわかっていません。
生まれたときにピカピカだったメガネがいつの間にか真っ黒くなってしまっていることに気が付いていないということです。
それをひとつずつクリーニングして記憶を消去しすることで本当の自分に戻っていく。
本当の自分とは違う役を演じていたことに気が付き、あるがままの自分に戻っていく。
わたしは「ありがとう」の後に「ホ・オポノポノ」に出会い、それを唱えてクリーニングしてきました。
ありがとう、愛してますは最強の言霊です。
そしてクリーニングすることでいままで後回しにしてきた潜在意識に語りかけ、少しずつ自分を愛していくことを始めました。

あるがままの自分を無条件で愛することが目的です。
だから自分をジャッジしないように気をつける。
なぜなら私はおおものに繋がっているのだから、このままで完全だからです。

その時にサポートしてくれる強い見方がいます。
それは自分の内にいるハイヤーセルフ(higher-self=高次の自分)です。

メガネがきれいになってくると、ハイヤーセルフ(higher-self=高次の自分)と繋がれるようになります。
インスピレーションがおりてくることに気が付き始めます。
ハイヤーは私が決めてきた人生劇場のすべてを把握しています。
ハイヤーは私の魂の記録のすべてを把握しています。
そしていつも最善の道をいつも用意して待っていてくれています。
が、それに気が付いてないのは自分です。なぜならエゴの囁きに耳をかしているから。

エゴのようにあーしろ、こーしろとは言いません。
ずっと人生を見守っていてくれていました。
おおもとに繋がっていることを思い出すための助っ人だと思うと楽しいと思います。

<おおもと→ハイヤー←私> 中間地点でパイプ役という感じです。
エゴの幻想の世界に生きている私はなにも知りません。
でもハイヤーは全てを知っています。
だからハイヤーにすべてを尋ねて、助けてもらうのです。教えてもらうのです。

そうしてひとつずつ心に平和を取り戻し、一瞬一瞬、愛に戻っていく。
<愛=ほんとうの自分=真我>です。
<真我=おおもと>です。

宇宙に存在する全てのものは<おおもと>に繋がっている

私は宇宙に存在する全てのものは<おおもと>に繋がっていると思っています。
全てひとつなんですね。

<おおもと>は全知全能です。
だから自分で頑張る人生から、お任せして生きる人生を選んだ方が楽しいということに気が付きました。

*万物(宇宙に存在している全てのもの、ありとあらゆるもの、すべての存在)
*おおもと(源、ソース、神、創造主、神我、真我などと同じ意味)

子供がお日様の絵を描いたみたいに、丸(○)から無数の線が出ていて、その一本一本の線の先に私たちや植物、動物など全てのものがあります。みんな繋がっているということです。
そして全てのものには固有の<波動>を持っています。

私の中にある意識と同じものが、ほかの人にも、植物や動物、鉱物、山や川や星たちにもあり、全て繋がっているということです。

ということは他のものを傷つけるということは自分を傷つけることになります。
なぜならすべては一つだから。<他人・他のもの>はないからです。
それが理解できると競い合って生きる必要はなく、<分かち合って生きる>という意味が分かるかと思います。

人間以外のものたちは、繋がっていることが分かっているので全て愛と調和の中で生きています。

愛の中で調和に生きている世界が本当の世界です。
でも私たちはそれを忘れてしまっています。
そしてエゴという幻想の世界を生きていることすらも忘れてしまっています。

ではどうやって思い出していくのでしょうか。

自分がおおもとに繋がっていることを忘れてしまっているのだから、それを思い出していくためには、ひとつひとつ自分の内を<クリーニングしていく>ことが必要です。
知らずのうちに真っ黒になってしまった眼鏡を、一拭き、また一拭きしながらきれいにしていくのですね。

まずは頭で考えるのではなく、感じてみてください。
そこに良い悪いなどのジャッジは必要ありません。
ただ感じたことを自分自身の中に認めて受けいれる。

ある人を見て「この人の顔が嫌い」と思ったら、
「何で私はそう思うのだろう」と考えるとか
「そんなこと思っちゃだめ」とか思う必要はありません。
ただ「私こういう顔嫌いなんだ」とただ認め、受け入れるだけです。

日々の生活の中でわきあがる自分の思考・感情ひとつひとつに、耳を傾け、感じ、認め、受け入れて作業の連続です。

そうしてきれいにしていく作業を続けていくと、<おおもと>からのインスピレーションが入ってきやすくなるのですね。

そうすると<我がまま>から<あるがまま>への道に進んでいくのですね。

幸せのシャンパンタワーは私から!
そしてあなたから!
Knus fra Nobue








みんな違ってあたり前!ということに気が付く

現在、この地球の人口は80億人!
もし80億人全員が、同じ環境で同じ時間に同じ事件にあったとしても
誰ひとりとして、同じ体験、思い、感じ方、とらえ方をする人はいないのです。

だから「みーんな違ってあたり前!」ということに気が付くと、
心がかなり楽になります。

誰かの話を聞いているとき、話を聞いているのではなく、
「あーそれは違う!」と次に何を言おうか考えていたりしませんか?
頭の中ですぐさま「それは違う!」と判断していませんか?

みんな考え方、とらえ方、感じ方が違うのだから、そう思う必要も、
競うことも、比べることも、争う必要もないのですね。

そういう考え方もあるよね!と「あーそうですね!」とただ受け容れる!
そしてどんなことでもなるようになっているのだから「えーやん!」「これでいいのだ!」と思えるようになると、自己否定して、心をどん底まで落ち込ませて、絶望の自分に浸ることなく、「よっしゃ!次、いってみよう!」と心を切り替えて、整えていけるようになります。

それがすぐに出来る人もいれば、練習が必要な人もいます。
でもその練習を一歩ずつ進めていくと、本当の自分(愛=調和と平和)の世界に戻ることができます。

この世界はシンプルです。そして愛に満ち溢れています。

「すべてを受け容れる」練習をしていくと、いつも見ている世界が輝きだします。そしていつもそこに在った愛から、たくさんの奇跡を見つけられるようになります。

自分の心が愛で満ちると、それは自然に周りに溢れだします。

そうすると80億人のすべての人たち、そして生きとし生けるすべてのものから、
いつも愛を感じられるようになります。

そのことに出来るだけ早く気が付いて欲しいなと思います。
なぜなら「生きるって楽しい!」から!

幸せのシャンパンタワーは私から!
そしてあなたから!
Knus fra Nobue

今日が最後の日だったら・・・

自我に操られたまま被害者意識のままでも、愛と共に生きることを決意して、一歩進んでまた立ち止まっての日々のどちらを進んでも良いのですが、「今日が最後の日だったら」ということを毎日自覚しながら過ごしたいと思っています。

そうすると、カッときてイライラして口も聞きたくないと思っても
彼が外出しようと階段から降りてきてドアを開けた音を聞くとき
もしかするともう二度と逢えないかもしれないと思うと
私も仕事場のドアを開けて、いってらっしゃいとハグすることを選びます。

きっと逢えないと思うことはネガティブだから、そう思ったら、それがかえってくるのでは!と思うかもしれません。
でもだからこそそのイラっとした態度ではなく、ちゃんと目を見て行ってらっしゃいとほほ笑んで送りたいのですね。

朝起きたら目が覚めて今日も生きていたことに感謝する、一日の終わりにはもうこれで目が覚めなくても良し!と思えるように生きなさい!

と読んだことがあり、そうしたいと思いました。
でも現実はそうはいかないことも多いです。だけれど、朝起きたら目が覚めて今日も生きていたことに感謝することはできますよね!

もちろん、このまま目が覚めなかったらいいのにと思ったことも何度もあります。
でもその度に、部屋の片づけがまだ済んでない。。。とか思っちゃいます。

ともあれ、今日が最後の日だと思ったら、その時その目の前にいる人、事を大事にする、そのためには自分が心地よいことを選んでそうする。ただそれだけなんだなと思いました。

被害者意識

このとある物語のように「私がこんなになったのはあなたのせい!」と思っていることが自分の中にどれくらいありましたか?

私がこんなになったのは親のせい!
私がこんなになったのは友達のせい!
私がこんなになったったのは学校のせい!
私がこんなになったのは会社のあの人のせい!
私がこんなになったのは不景気のせい!

きっとほとんどが「自分以外の誰かや何か」のせいです。
まず、自分が被害者だと思っていることに気が付きましょう。

不平、不満、愚痴、泣き言がでてくるということも同じです。

この人のせいで私はこんなに辛い思いをしている
私はしてあげるばかりで、向こうは何とも思っていない。
なんでこんなにしてやっているのにわかってくれないの。
私は悪くないのに、私はこんな仕打ちをうけている

これもすべて自分が被害者意識になっているのですね。

だからその人が変わってくれたら、私はもっと幸せになれる、楽になれる、良くなれると思って一生懸命他人を変えよとうとしますが、自分を変えようとは思っていません。
すべて意識が外に向いているからです。

そして本当は加害者さん見つけることで、わたしは不幸であるという悲劇のヒロインの役割を捨てたくないのです。

それはなぜかというと、周りの人に心配や同情してもらえるなど、
それを理由に被害者でいるといいことがあるからです。



私がこんなになったのはあなたのせい!

とある物語。昨日の続きです。

日本に住んでるぽっちゃりさんは、みんなが痩せているから私も痩せないと恥ずかしい、変な目で見られると思ってダイエットをしています。でもダイエットは続かず、いつもあーまた今回もダメだったと自分を責めます。そうするともっと辛く、悲しくなって、ついご飯をもっと食べちゃったり、ジャンクフードを食べちゃったりします。そして毎回その後に、「あーあ、また食べちゃった。。。」と自分を責めます。そして「明日からはダイエットしよう!」と思いますが、いつもその繰り返しです。

でも心の中を覗いてみるとこのぽっちゃりさんは、このぽっちゃりしたありのままの自分を気に入って入っていたのでした。でもそれを忘れています。

一緒に暮らしていた大好きなおばあちゃんは、「あなたは何でも美味しそうに良く食べてくれるから作り甲斐があるわ!いい子ね~!おばあちゃんはそのぽっちゃりが可愛い!」といつも言っていました。そして自分でもこのぽっちゃり加減が可愛いと思っていたのです。

ぽっちゃりさんは学校に上がると、「ふとっちょ!」と笑われるようになりました。
おばあちゃんはいつも可愛い!と言ってくれていたのに!
自分でも可愛いと思っていたのに!
そんなことで笑われるとは思ってもいなかったふとっちょさんは、何故だかわからず、笑われて心がとても傷つきました。

しばらくして教室を見渡すと、ぽっちゃりさん以外はみんなほっそりさんでした。
ぽっちゃりさんはびっくりしました。私はほかの子たちと違うと。。。
そしてほかの子と違っていると「笑われる」んだということを学びました。
そうしているうちに、そんな「人とは違うぽっちゃりな自分を恥ずかしい」と思い始めました。

そのうち、「私はみんなと一緒のほっそりさんにならなければいけない」という思いが大きくなってきました。
だって「私はほかの人と違うから!」。。。そしたら笑われる。。。

おばあちゃんは相変わらず、そのぽっちゃりが可愛いと言ってくれます。
でもおばあちゃんが「ぽっちゃりが可愛い!もっと食べな!」と言うたびに、
「おばあちゃんが、そうやって言って、いつもいっぱい料理を作るから私が太ったんじゃないか!」とおばあちゃんをだんだん恨むようになりました。

私はほかの人と違う!だから同じようにならなきゃと思ってダイエットを繰り返したけれどいつも失敗。そのうちなにもかもおばあちゃんのせいになりました。

こんなに太ったのもおばあちゃんのせい
みんなに笑われるのもおばあちゃんのせい
流行りの服が入らないのもおばあちゃんのせい
彼氏ができないのもおばあちゃんのせい
ダイエットに失敗するのもおばあちゃんのせい
こんなに辛い、悲し、苦しい思いしているのは、全部おばあちゃんのせい!!!!!
おばあちゃん、どうしてくれるのよ!!!

このとある物語のように「私がこんなになったのはあなたのせい!」と思っていることが自分の中にどれくらいあるか考えたことがありますか?

これが常識、当り前、普通って何ですか?

「所変われば品変わる」(=土地が変われば、当たり前と思っている風俗・習慣も違ってくる)
と昨日は私がデンマークに来て感じたことを書きました。

例えば日本では細めの女性が好みようですが、首長族の中では首が長いのが美人の条件だし、南米ではお尻が大きい女性が魅力的だと言われています。

ということは、日本に住んでるぽっちゃりさんはもしかしたら、「あー痩せなくちゃ」と思っているかもしれませんが、どこかの国にいけば魅力的な体形なのです。
その国ではほっそりさんが「あー太らなくちゃ」と思っているかもしれないのです。

だからこうだ、あーだという決めつけ、思い込み、
みんながこうだから、ああだから、という決めつけを外していくと楽になります。

これが常識、あたりまえ、普通って何ですか?誰が決めたのですか?
それについて考えてみたことがありますか?